3.3 第3代忠義親王

    初代高福天皇の第2子忠義親王は直ちに即位、年号を明応と改めた。  

    文正2年(1467)に起こった応仁の乱において美作の守護であった西軍の
山名宗全は忠義天皇を京に乞い、錦旗聖旨を戴き細川勝元の東軍を国賊として
将兵を鼓舞しようとした。 一方、忠義天皇も長年願望である京への進出の機
会到来とばかり尊朝、森久の二児をつれて植月御所から上洛した。 しかし、
文明
5年(1973)、両軍の将山名宗全、細川勝元が相次で亡くなったが、戦い
は全国に拡大し
4年間も続いた。 その後ようやく休戦の機運が高まり、文明
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年(1477)両軍の和議が成立した。 

    この11年間続いた応仁の乱が勝者のないまま収束したことより忠義天皇の
願望は達せられず、京を引き揚げ植月御所に帰還した。 挫折した忠義天皇は
12才の尊朝親王に世を譲り禅定法王として隠居、文明
12年(148035才で崩
じた。

3.4 第4代尊朝親王

応仁の乱後の幕府は権威を失墜し、地方の豪族達が互いに領地を争う戦国時
代に突入した。 文明
9年(1477)父忠義天皇の跡を継いだ尊朝親王は八郎丸
と名乗り、日の丸を旗印に西から親王領に迫る毛利勢力に備えた。 親王は天
15(1546)81才で崩じた。

3.5 第5代尊光親王

天文15(1546) 尊朝親王の跡を継ぎ父と同じく八郎丸を名乗り、皇位の回
復、親王領の防衛に努める等、戦国の世を乗りきったが領地は減少した。 永
11年(156876才で崩じた。

3.6 第6代尊通親王

      永禄11年(1568)父尊光親王の跡を継ぎ八郎丸を名乗り、安東一族や美作の土
豪の協力を得て勢力拡大に努めた結果、天正
6年には領地は85千石にも及んだ。
 しかし、天正
10年になると南から手をのばしてきた宇喜田直家に領地を5千石
にまで狭められた。 尊通親王は播磨の守護赤松晴政に援助を依頼したが、その
懇請も実らないまま慶長
2年(159771才で崩じた。

3.7 第7代尊純親王

慶長2年(1597)父尊通親王の跡を継ぎ、明正15年(1638)には京都青蓮寺法
主、天台座主となり、承応
2年(165386才崩じた。   

3.8 第8代高仁天皇

    天皇が勅許により京都の僧に与えた紫衣や上人号を幕府が取り消したこと等、
府の横暴に立腹された第108代後水尾天皇は退位を決意した。 度重なる
幕府の無
礼と弾圧に怒りと絶望を詩に詠み、幕府に相談なく寛永3年(1632)
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20日植月御所におられた美作南朝の9才の高仁親王に譲位され上皇の身
となった。

 

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        慶長18年(16136公家衆諸法度施行

        元和元年(16157紫衣法度、禁中並公家諸法度施行

 後水尾天皇の詩  

    「思うことなきだにいとふ世の中にあわれ捨てても惜しからぬ身を」

     「葦原よしげらばしげれおのがまま、とても道ある世にあらばこそ」

  高仁親王は践祚の式をして高仁天皇となり、寛永4年正月、年号を天晴と改めた。
即位式は後水尾上皇の御所が完成してから京都で挙行の予定であったがこれは行
われなかった。 しかし、徳川幕府はこの譲位を快しとせず直系の興子内親王を天
子とするよう強要
した。 後水尾上皇は幕府の恫喝に屈したため「寛永611
8日譲位」と発表され、7才の興子内親王が明正天皇として即位した。 これを機
に幕府は南朝の弾
圧を増々露にした。

 寛永11年6月失意の高仁天皇は後水尾上皇との約束の履行を正すな
どの交渉を
させるため津山藩初代藩主森忠政に
上洛させたが忠政は毒殺され、幕府は高仁天皇

を廃帝とした。 

 高仁天皇は貞享2年(168567才で崩じた。

3.9 第9代良懐親王

寛文6(1666)6月生れで武技に優れ剛力無双の偉丈夫であった。 

明暦3年(1657)徳川光圀は大日本史の編纂を始めたが、元禄10年(1697)美

   作の植月御所に使者をおくり南朝史料の調査を願い出た。 良懐親王は弟良明
親王を水戸に派遣、光圀に事情を確かめさせた。 光圀から国史編纂の目的な
どの説明を受けた。 

 この報告を受けた良懐親王は「南朝正系を世に訴える良い機会」と侍臣に美
作後南朝の皇統譜、皇系図、古記録等を持たせ水戸に送り出した。 その頃、光
圀は健康を損ない良懐親王から届いた資料等を目にすることも出来なかった。 
しかし、これら貴重な資料は再び植月御所に返ることはなかった。
その後、
光圀は元禄
13年(170073才で亡くなっている。 

一方、元禄10年(16978月、幕府は津山藩森家を改易し、125日には幕府
は使者大目付、水谷勝信に命じ
200余の兵を植月御所に派遣し、第9代良懐親王
に対し次ぎの通り通告した。

* 宮家の親王号を剥奪し臣下に格下げする

* 津山藩より受領の5千石の扶持米は召し上げる

* 植月御所の領分地の全てを没収する

* 御所への居住は当代限りとする

 平民となった良懐親王は屈辱に耐え「我王」を名乗り武術に、相撲にそして
百姓に励んだ。 そして、宝永
6年(1709)年1月、西大寺に向け吉井川を高瀬舟
で下る途中、

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 備前鴻の瀬で突然船が転覆し従者ともども水死し、親王は柵原町飯岡に埋葬
されている。 このとき親王は
44才であった。 この頃、幕府から南朝系の者
を抹殺するよう指令が出ていたことから良懐親王の死も暗殺であったとされて
いる。

    美作において嘉吉3年(1443)から宝永6年(1709)までの254年間続いた
美作後南朝は正史に認知されることもなく
9代にして終焉を迎えた。

 

4.津山藩森家の悲劇

  天正10年(15826月織田信長と共に本能寺で戦い戦死した森蘭丸、坊丸、力丸の

末弟美濃金山城主森忠政は慶長5年の関ヶ原の合戦で関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍が

上田城主真田昌幸に阻止され苦戦しているのを助けた功績で慶長5年、徳川家康に信州

川中島137500石の城主に封じられた。 のち慶長8(1603)、美作186

500石の津山藩主に封じられ森家初代藩主となった。 それ以降、森家は断絶の元禄

10(1697)までの95年間外様藩主として美作を統治した。

 しかし、 徳川幕府の基盤を一層強固なものにするための有力外様大名の取り潰し政

策と、美作に存在した後南朝断絶を計るため森家は幕府により取り潰された。

 

ありし日の津山城

 

 

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