地方の知られざる歴史

 −後南朝の滅亡と津山藩森家の取潰し−

 

 まえがき

  暦応2年(1339年)816日後醍醐天皇が吉野で死し、以降約60年にわたり南
 北朝の間で権力闘争が続いたが、明徳
3年(1392年)南朝は北朝に吸収される形で
 滅んだ。
しかし、その後も旧南朝勢力は抵抗勢力として吉野、美作等に存在した。
 末裔の中には美作の国植月に御所を置き、独自の天皇を建て美作後南朝として中央
 復帰を図った。 しかし、その夢かなうことなく宝永6年(
1709年)九代の良懐親
 王で滅亡に至ったがこの事実は正史で認められることはない。

  一方、明智光秀の謀反で起きた日本史上最大のクーデターといわれる本能寺の変
 で、信長側にいた森蘭丸の兄弟のうち
3人が本能寺で戦死し、幼かった末弟忠政は後、
 徳川家康に取りたてられ慶長8年(
1603年)1865百石の美作国国主として津山
 藩に封ぜられた。
その当時、美作東部には美作後南朝御所が過酷な運命にさらされ
 ながらも史実として存在し続けていた。
 幕府が京の北朝系朝廷を支持しているに
 もかかわらず津山の森藩は美作入封に際し受けた植月御所の恩義に対し、その後も
 美作の朝廷を支援し忠誠を尽くした。
このことが幕府の忌諱に触れ、また、将軍綱
 吉の外様大名弱体化政策とあいまって外様大藩である森家は元禄
10年(1697年)8
 
2日に廃絶の憂き目に遭った。 おもてむきには若くして急逝した藩主長成に嗣子が
 なかったことによる。

  森家は慶長8年(1603)津山藩に封じられ元禄10年(1697年)の改易迄僅か4
 
95年の短い歴史であった。  森藩弱体化の具体策として幕府は各地の城の修復等
 莫大な出費を伴う数々の過酷な賦役を課したが、特に中野村(現在の東京都中野区)
 に
30万坪におよぶ犬小屋の造営を命じられたことは藩財政にとって致命的であった。
 その総工費は現在価格にして50億円にも達し藩は財政難となった。

  本文は決して歴史の表に出ることのない美作の国に実在したとされる後南朝と津
 山藩森家の悲劇についてその概要を纏めた。

1.           南北朝の興り

 第88代後嵯峨天皇には二人の皇子があり長子久仁親王は温和な性格なのに反
し、弟恒仁
親王は活発果敢な性格で父天皇に深く愛された。 後嵯峨天皇は1242
年長子に皇位を譲り第89代後深草天皇としたが後深草天皇を早く退位させ1259
年に溺愛する次弟を第90代亀山天皇として即位させた。

 のち、後深草天皇と亀山天皇が約束し、それぞれの子孫を交互に皇位につけるこ
 ととした。 これにより長子相続のしきたりが崩れることになったが、このこと
 は天皇家の勢力を二分し、その権威を弱める幕府の深謀からであったとする見方
 がある。 このような約束があるにもかかわらず第91代天皇には亀山天皇の皇
 子の後宇多が天皇の座に就いたので後深草は幕府に抗議し、自分の子を皇太子
(92代伏見天皇)とし交互迭立の途を開いた。

−1−

このようにして皇統は後深草天皇の持明院統と亀山天皇の大覚寺統の二流に分か
れた。 これが南北朝の興りである。

注:− (1)持明院
              藤原基家(11321214)の邸宅でその後、後深草天皇系の上皇が
          代々ここを住居としたことから、その皇統を持明院統という。

(2)大覚寺
          大覚寺は今から約1200年前京都に都を定めた桓武天皇の皇子
          嵯峨が造営した離宮で、後876年大覚寺と呼ばれることとなっ
          た真言宗本山で、代々南朝系天皇の住居として用いられた。

2.南朝の興亡

2.1 第96代後醍醐天皇

       日本は聖徳太子以来仏教支配の国であったが中世平安時代の後半から次第に武力
支配が台頭し、源平合戦を経て武家政権の実現を見、公家政権と対立した。
 
の後、公家政権の衰亡に反し武家政権が力を得るにおよんだ。

 1)院政の廃止と正中の変

       正応元年(1288年)後宇多天皇の第2子として誕生した後醍醐天皇は文保2年
1318年)31才で即位したが政務は後宇多法王の院政によった。 しかし、後
醍醐天皇は理想政治を確立すべく強い意志を持って臨み、元享元年(
1321年)に
は院政を廃し天皇の親政に移行した。

 そして、正中元年(1324年)後醍醐天皇37才のとき日野資朝、日野俊基、土岐
頼貞、多治見国長を集め武家政権の奪取を計画したが、その討幕計画(正中の変
は多治見国長の妻から妻の父・斎藤利行を通じ幕府六波羅探題の知ることとなっ
た。
 六波羅軍勢に急襲され土岐頼貞、多治見国長は自害し、日野資明、日野俊基は
捉えられ俊基は放免され資朝は佐渡へ流され、一方、幕府は天皇の罪は問わなか
った。
 この様にして討幕計画は不成功に終わったものの天皇の討幕への意思は変らな
かった。

:− 六波羅探題

   六波羅探題(ろくはらたんだい)は鎌倉幕府の職名の一つで1221年承久の
乱の後、幕府が京都六波羅の北と南に設置した出先機関で、それぞれ六波羅
探題北方・六波
羅探題南方と呼ぶ。

 2)元弘の変

       北条政権は後醍醐天皇に退位を迫ったが、執権北条氏の信望が地に落ちてい
ることを知
ていた後醍醐天皇はなお討幕計画を推進した。 一方北条氏は幕府
に都合のよい皇仁親
王をたてた。 これを知った後醍醐天皇は元徳3年(1331
年)再び討幕計画(元弘の変)
を推めたが天皇側側近の大納言・吉田貞房の密
告により幕府の知るところとなり、一味六
波羅探題に捉えられ日野俊基は鎌倉
に護送され葛原岡出処刑された。 後醍醐天皇は京都の笠置山にこもったが幕
府に攻撃され、

−2−

 脱出したものの山城国で捉えられ翌年隠岐に流される。 しかし、討幕計画は
天皇の皇子である護良親王(大塔の宮)の号令により全国の
討幕勢力を奮起さ
せた。 一方、政府軍は千早城の楠正成によって悩まされた。

    大正 4年 従四位  有元佐弘、有元佐光
         従五位  有元佐吉
   大正 8年 従五位  植月重吉、鷹取種佐
大正13年 従五位  原田佐秀、福光佐長

 3)鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

       元弘3年(1333年)隠岐を脱出した後醍醐天皇は船上山を拠点として六波羅で
幕府軍を
攻撃し幕府軍は壊滅した。
    一方、鎌倉では大塔の宮の命を受けた新田貞義の攻撃に抗しきれず、執権北
条高時は自
害し鎌倉幕府は滅亡するに至った。
後醍醐天皇は京都に還り再び建武の新政と云われる朝廷政治を復活した。 
天皇が目指
した新政は幕府も院政も摂政・関白も否定し天皇の理想を実現することこ
とであった。後醍醐天皇は朱子学を信奉し中国風の専制政治を目論見、真言密教で
幕府滅亡を祈願するなど奇特でエネルギッシュな天皇であった。 
 また天皇は従来の農民を中心とした定住民社会から山の民、海の民など非定
住民社会に軌道を修正し流通経済化をもくろんだ。

 4)建武政権の失政
    後醍醐天皇は新政の手始めに武家階級の象徴的首長の地位である征夷大将軍
  の地位を天皇家に取り戻し護良親王に与えた。

   また政治機関である記録所を復活し、記録所を通じ理想の高い政治を行おうと
  したものの時代に逆行するものが多く、新たな施策を行う度に混乱を増し人心も
  離れた。 ひそかに幕府再建を目指していた足利尊氏は光明天皇を立て後醍醐天
  皇に譲位を迫った。

   その結果、後醍醐天皇の執念で実現した建武新政も建武3年(1336年)僅か3
  年で崩壊し天皇は再び吉野に逃れ、後に南朝と言われる朝廷を創設した。 かく
  して、吉野の後醍醐天皇の南朝と、京都の光明天皇の北朝とが並立することと
  なった。

5)南北朝の動乱
  後醍醐天皇は吉野において正統な皇位は自分であると主張した結果、南朝と北
朝がそれ
ぞれ異なった年号を用い、その後元中9年、明徳3年(1392年)までの
約60年間にわたり両立し、日本史上稀に見る全国規模の動乱に明け暮れた。 南北朝
廷両立後の南朝は形勢不利だったが抗戦を続けた。その間、後醍醐天皇は廷元4年(
1339
年)吉野で、

                   −3−

「たとえ自らの骨は吉野の苔の下に埋もれても、魂はあくまで京都への帰
還をのぞみ続けて止まぬであろう」
(太平記)との言葉をのこして亡くなっ
たとされている。

 後醍醐天皇のこの執念は1392年の南北朝統一後も長い間日本全国を動乱に巻
き込んだ原因の一つと考えられている。

 一方、北朝側では足利尊氏が軍務、弟の直義が政務を担当し幕府は順調に滑
り出したが
双方を支持するそれぞれの勢力の間で幕政運営を巡り対立が生じ、
観応元年(
1350年)内部分裂し地方を巻き込んだ騒乱(観応の騒乱)に突入
した。

6)南北朝合一
    永く続いた南北朝の動乱も足利義満が南朝側に和平を呼びかけ、元中9年
1392 年)南朝の後亀山天皇は下記の4つの約束を交換条件に天皇の皇位の象
徴である三種の神器を北
朝の後小松天皇に譲り渡すことで約60年にわたる内乱
に終止符を打ち南北朝の合一が実現した。(明徳条約)

  南北朝合一の条件  
     ア)後亀山山天皇(南朝)から後小松天皇(北朝)に譲位の儀式(三種の神器
     委譲)

     イ)以降の皇位は持明院統・大覚寺統で交互に迭立
     ウ)諸国国衛領は全て大覚寺統の管領
     エ)長講堂領は諸国分全て持明院統の管領

  注:− (1)国衛領(こくがりょう)
          律令制下の諸国に中央から派遣された国司が統治する地域のこと。
      (2)長講堂領
         長講堂は法華経を長期にわたり講義するために後白河法皇が建立し
         た
法華長講弥陀三昧堂のことである。 後白河法皇は建久2年
        (
1191)に自分の所領・荘園42か国89か所を寄進して長講堂の経
         済基盤を確定
したがこれら領地を長講堂領という。

2.2後南朝

  三種の神器を得、第100代後小松天皇を建て揺るぎなき基盤を確立した足利
幕府は衰退に向かう南朝を顧みることなく、明徳条約を反故にするだけでなく
元中9年(1392)の南北朝統一の4条件のうち4)以外は実行せず、後亀山上皇
をはじめ南朝関係者を厳しい監視下に置き行動の自由まで制限した。
 しかし、後亀山上皇最大の関心事である皇太子人事で幕府が南朝系の皇子を推
挙してくれるのではとの僅かな期待があったので後亀山上皇は合一後暫らく恭順
の態度を保ち続けた。

 1)後亀山上皇吉野へ出奔
 応永15年(1408)足利義満の死を機に幕府は南朝皇子成仁(後村上天皇の孫)
 を仏門
に入れ皇位継承権を剥奪し、後小松天皇に代え同天皇の第一皇子の躬仁
 を即位させよう
と計画した。

−4−

このような企てを察知した後亀山上皇は幕府
に皇位継承問題を質し、躬仁の即位阻止と

北朝合一条件の履行を迫る目的で足利義持を
訪ねたがその目的は達せられなかった。

   応永17年(1410)後亀山上皇は幕府に対する抗議行動として嵯峨を出奔し
吉野に入リ
後南朝(合一後の旧南朝の意)を建て再度北朝に対立した。 
その後も皇子たちが反幕府
勢力のシンボルとなって蜂起が続いた。

 

2)小倉宮の出奔と南朝後胤の断絶策

   後亀山天皇の孫、小倉宮聖承は皇位への不満から正長元年(1416)嵯峨から姿を
晦まし北
畠満雅を頼り伊勢に赴いた。 後亀山上皇、小倉宮の京都出奔は室
町幕府の皇位問題が
克服されていないことを物語っており、このような不安
定要素を取り除くため足利義教は
永享6年(1434)南朝後胤の断絶策を打ち
出した。
これに対する南朝勢力もいきおい粗暴化し嘉吉3年(1443)には大
挙して宮中を襲い三種の神器の一つである神爾を奪い去った(禁闕の変
 

 3)赤松満祐の将軍暗殺

 将軍足利義教は性格厳しくその施政は過酷を極め、将軍就任以降1434年までに
領地没収、遠流、死罪に処せられた公家・神官・僧・女房など総数は80名にの
ぼった。 播磨国守護の赤松満祐は将軍義教が満祐の同族赤松貞村を寵愛し、満
祐を排除しようとする動きをみて身に危険を感じ嘉吉元年(
1441)義教を自邸に
招き暗殺した。(嘉吉の乱)

 この事件により赤松満祐は山名宗全等幕府討伐軍に討たれ、赤松氏は一時的に
滅亡した。 

 

3.                   美作後南朝

    美作後南朝皇統譜を次表に示す。

 

尊  号

出  自

特 記 事 項

初代

高福天皇(尊義)

小倉宮良泰の子

近江より植月御所へ、1443年即位、1451年尊雅へ譲位、145545才崩

2

興福天皇(尊雅)

義有親王の子

14516才で即位、1458年赤松党に襲われ13才で崩ず

3

忠義天皇

尊義親王の子

145812才で即位、1477年譲位、148035才で崩ず

4

尊朝親王

忠義天皇の子

1477年皇跡を継ぐ、1546年没81

で崩ず

5

尊光親王

尊朝親王の子

1546年皇跡を継ぐ、1568年没76

で崩ず

6

尊通親王

尊光親王の子

1568年皇跡を継ぐ、1597年没71

で崩ず

7代

尊純親王

尊通親王の子

1597年年皇跡を継ぐ、1638年天台座主、165386才で崩ず

8代

高仁天皇

尊純親王の子

1626年後水尾天皇より譲位さる、1634年幕府により廃帝、62才で崩ず

9代

良懐親王

高仁天皇の子

1697年幕府により親王号剥奪、1709年横死、44

                     −5−

3.1初代高福天皇

1)  南朝99代後亀山天皇の長子、小倉宮良泰親王は天皇の座を待つこと久しく老齢
に近づき側近達は憤懣やるかなく、良泰を奉じてことを興すべくしばしば協議
した。 その結果、美作守護職山名修理教清に働きかけ京都を離れた美作に御
所を建てそこを南朝御所(植月御所)とすることとした。
 

2)山名修理教清はこの要請を受け入れ田口左馬介重貞に命じ植月庄北村に御殿を
造営し、嘉吉
2年(1442)8月、近江国甲賀郡小椋の里に潜伏していた小倉宮良
泰の子、尊義親王と尊秀親王を美作の植月御所に迎えた。
 

3)権大納言日野有光、美作守護山名教清、丹波・播磨守護山名持豊、楠木正秀、
楠木正元などは第
103代後土御門天皇のあとには小倉宮良泰親王(實仁)を天皇
にと望んだが、親王は嘉吉
35月(144373才で崩じられた。

  日野有光等は北朝が持っている三種の神器の奪還を計画し、嘉吉3年(1443
9月土御門御所を約300名で襲い神器を奪取した。 しかし、神鏡は途中で取り返
され、神剣も清水寺辺りで失い、神爾のみ楠木次郎によって比叡山延暦寺で待っ
ていた良泰親王の子、泰仁親王のもとに届けられたが幕府方畠山持国の急襲と僧
兵の寝返りにより敗北、泰仁親王達は自害した。 このとき神爾は楠木正元等に
よって比叡山から密かに持ち出され美作「植月御所」の尊義親王のもとに届けら
れた。(禁闕の変)

小倉宮良泰親王の第四皇子尊義親王は美作後南朝初代天皇として嘉吉3
 (
14431029日即位、高福天皇となり12月年号を天靖と改元した。 

4)高福天皇は1444年、僧籍にあった有義親王を還俗させ征夷大将軍に任じ8月大
  和方面に
出撃させた。 しかし、戦況に利なく有義親王は大和湯浅城で自害、
  高福天皇は有義親王の
死を悲しみ退位を決意、有義親王の6才の皇子尊雅親王に
  譲位し、その後、康正
1年(145545才で亡くなった。 

3.2 第2代興福天皇

宝徳3(1451) 尊雅親王は第2代興福天皇として即位、改元大明となった。 
しかし、天皇が幼く執政は高福太上天皇にあった。

 即位から7年後の長録2年(14587月、興福天皇は植月御所内で幼帝の相談
相手であった小寺藤兵衛に突然斬られ、翌日
13才で死亡。 (長録の変)
 小寺藤兵衛は赤松家再興のため植月御所にあった三種の神器を奪取するため
名を僧侶性説と偽り単身で植月御所に潜入していたものである。
 神爾を手
にした小寺藤兵衛は京都で大事成功を報告。

        赤松家は再興が許されて赤松政則が相続人と認められ、加賀、出雲、備前の
一部が与えられた。

    現在、これら神器争奪・天皇殺害事件等の舞台は全て大和の吉野地方
でのこととして知られているが、当時の幕府が美作に南朝の一派がある
ことを隠蔽する意図があったものと考えられる。 なを、後世の研究者
を混乱させる一因として京都、吉野、美作の地
名の類似によるところも
大きい。

                   −6−

    美作と京都・奈良類似地名

美  作

吉  野

    京  都

古吉野(勝央町・勝北町)

 

 

北山(勝央町・勝北町)

北山(和歌山県の奈良県内飛地)

北山通り(北区)

鳥羽野(勝央町・勝北町)

 

鳥羽(伏見区)

吉野(大原町)

吉野(奈良県)

 

大原(大原町)

 

大原(京都府)

壬生(大原町)

 

壬生(中京区)

加茂(加茂町)

加茂(加茂町)

上・下賀茂

公文(美作町・英田町)

 

 

高倉(津山市)

 

高倉(中京区)

高野(津山市)

高野町

高野(左京区)

高取(津山市)

高取(高市郡高取町)

 

塩谷(英田郡西粟倉村)

 

塩屋(中・下京区、伏見区)

吉野川

吉野川

 

加茂川

 

賀茂川(鴨川)

  注: 植月御所は北方(きたがた)にあり、仙洞御所、鳥羽野の見政庵があった

また、よく知られた説のなかでは赤松家再興を企てる残党により長禄元年(1457
奥吉野の川上郷において南朝側の一宮・二宮の殺害、およびその翌年には尊雅親王
の殺害と神爾の奪還(長禄の変)が実行されたとされている。 この企てには幕府
・朝廷の赤松家再興の約束が取り付けてあった。

ここで殺害された南朝側の一宮とは尊秀親王、二宮とは忠義親王とする説があり、そ
の場所も現在の奈良県吉野郡川上村・上北山村とされ通説となっているがそれを裏付
ける確かな史料は発見されていない。

 

−7−