4.1 津山藩森家家譜

  

藩主

出  自

治世

特記事項

初代

森  忠政

森 可成の10

1603年より32

33才で津山藩主、京都にて毒殺(65才)

2代

森  長継

森 忠政の外孫

39

25才で藩主に、65才で隠居、89才で没

3代

森  長武

森 長継の3

13

42才で隠居、謀反の理由で幕府から切腹を受命(52才)

4代

森  長成

森 長継の長男忠継の長男

11

16才で藩主、27才で江戸屋敷にて急死(毒殺か)

5代予定

森  衆利

森 長継の12

0

江戸出府中、桑名宿にて乱心、宝永233才で没

4.2 初代藩主森忠政の美作入国

1)   美作には取り潰された主家小早川家の再興を目論み、植月御所を支援する豪
族がおり、毛利と組み徳川と決戦をとの野望を持っていた。 そこに徳川に
忠実な森が国主では野望が挫折すると考え、美作東部の難波、新免、安東、
有元、江見、草刈氏等が語らい、美作西部の三浦氏がこれに呼応し郷民
3000
人を動員し国境杉坂峠の閉鎖等の入国阻止行動に出た。
               

2)   忠政はかねて京都にいたとき兄蘭丸とともに旧知の間柄であった仁和寺にお
られた覚深法親王に密かに助力を願った。 幕府政治をこころよく思わなかっ
た親王は、このとき幕府によって仁和寺に幽閉されていた。 親王は忠政の要
請をいれ腹心の清閑寺徳守卿を植月御所に派遣し、森忠政が美作に無事入国で
きたら植月御所を支援することを条件に有元、安東、新免等の説得を働きかけ
た。
 

3)   一方、忠政は作州小原に結集中の有元、安東、新免に使者を送り「将軍免によ
る森の入国を阻止することは征夷大将軍に反抗することであり、早晩大軍によ
り殲滅されることになる」ので早々に陣を解くよう説得し、陣を解けば今回の
反抗は不問とするとの約定書を提示した。 そして「森家は美作南朝の尊厳を
わきまえ忠節を尽くし、京の天皇家と交互に皇位に就くよう努力する」と約束
した。 その結果、忠政は慶長
8年(1603326日に院庄の館に入ることが出
来た。
入国後、鶴山を藩政の拠点に定め13年かけ五層の天守閣を持つ強固な
城を築(元
21616完成)いたが、五層の天守閣の建造が禁じられていたこ
とから幕府に睨まれるという事件も起こった。

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4.3 森忠政の藩経営

    大事業である築城と共に腐心したのが吉井川の治水事業と城下町の構築であっ
た。
 護岸工事は第2代長継の代の終りには城下全域の築堤が完成した。 
また、町は家臣士邸、侍屋敷、町人町、社寺で構成し、社寺を除く武士屋敷
15
万坪、町人町
9万坪であった。 また、城下防衛のため市街西部に寺町を設け、
各宗派の寺院24寺を配置した。

    一方、築城、治水、町つくりにもまして注力した領国経営では領国総検知に
よる見積もり、年貢の決定、刀狩を実施し武力の回収、有力な国侍を長百姓に
して大庄屋や庄屋層に組み入れ藩権力の末端として再編成した。

4.4 森忠政の毒殺

津山藩主森忠正は後水尾上皇の御殿完成後行われることになっていた高仁皇
即位式の挙行を後水尾上皇にただし、3代将軍家光と談合するため寛永
11
(1634)6月下旬天皇の勅使として京都に出向した。 

7月6日、京都の公卿達は津山藩の御用商人である三条の大文字屋宗味邸で
森忠正のため宴の席を設けた。 この宴席で忠政は毒が仕掛けられた桃を食し、
翌未明に
65才で死亡した。 また、忠政の嫡男忠広は前年の寛永10年(1633
津山藩江戸屋敷で幕府の謀略により死亡、毒殺と言われている。

 忠政毒殺後の11月、将軍家光は兵30万を率い京都に上り天皇家ならびに徳川
幕府に批判的な諸大名を威圧した。

4.5 第2代藩主森長継

初代忠政は嗣子の忠広が早く死んだので忠政の娘婿である家臣関成次の嫡男
長継を養子にしていた。 したがって長継は忠政の外孫にあたる。

幕府は寛永11(1634)末、老中堀田正盛、酒井忠勝、土井利勝の3名連署によ
る指示書により、長継が忠政の跡目をつぎ津山藩第
2代藩主とすることを許した。
 この指示書には跡目許可の他、今後は植月御所に従うことなく藩政を専ら幕閣
の命で行うよう申し付ける旨が付記されている。 長継は隠居まで
39年間におよ
ぶ長い間藩主として大変思いやりのある藩政を行い、また、国内の神社・仏閣の
造営にも力を注いだ。

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4.6 第3代藩主森長武

 延宝2年(1672)2月、隠居した第2代藩主森長継の跡を継ぎ第3代藩主となっ
た。
 その頃、幕府の植月御所に対する圧迫が烈しくなり、森藩は幕命により
御所勢力の削減に努力せざるを得なかった。 一方、在郷の豪族達は過去の事情
を熟知した岡山藩士稲川亦之丞を招き藩主長武に御所の歴史や初代藩主忠政の約
束を説明した。

これにより藩主長武は親御所政策へと考え方を一変し、御所を盛り立て第9代
良懐親王を奉じ天皇に就かせるべく決意し、大量の武器の備蓄にとりかかった。
 また、長武は江戸の藩邸に再三柳沢美濃守吉保を招き饗応し、9代良懐親王を
天皇にと懇願したが実現せず、かえって良懐親王の暗殺を招いた。

  貞享2年(1685)、長武は南朝正系が作州に健在することを内外に知らしめる目
 的で「作陽誌」編纂を計画し、家老の長尾勝明に命じ儒学者江村春軒、河越玄
用いて大々的な調査を行った。 先代藩主長継は幕府が「津山藩に陰謀の企てあ
り」と判断し取り潰しの対象にされるのを恐れ、貞享
3(1686)6月、渋る長武を
2
石の捨扶持で隠居させた。

その頃、すでに津山藩は幕府から危険な藩と目されていたが、それでも長武は
執拗に調査を継続した。

元禄9年(1696)5月18日、幕府は
森長武、良懐親王(よしやす)を奉じ謀反を企つ」との罪名で切腹を命じ、
その日、目白の関口屋敷で切腹、7月26日付けで森長武家2万石は廃絶となっ
た。

4.7 第4代藩主森長成

    第3代藩主長武は第2代藩主長継の厳命により兄忠継の子長成にしぶしぶ藩主
の座を譲り、長成は貞享
3(1686)16才で第4代藩主となった。
 元禄8(1695)10月、5代将軍綱吉は老中大久保加賀守を通じ津山藩と丸亀
の京極家に対し中野村に犬小屋の建設を命じた。 藩は長継の
6男で新見藩を継
いだ衆利を犬小屋建設総奉行に当て、
120名にのぼる建設部隊を編成した。
 普請は現在の中野駅中心に犬小屋289棟、日除け309棟、餌さ棟148棟
、釜屋28棟、役人長屋
24軒、番所40、井戸117か所等々、工事は10月
18日着工、12月4日完工の42日間の突貫工事であった。 これに要した費
用は雑費を含め現在の
50億円以上にも上った。 相役の京極家は身分は高かった
が金は無く、費用は殆ど津山藩が負担することとなり、藩内の御用商人は勿論、
京、大阪の豪商から調達した。 津山藩はこの工事の負課で経済的に止めを刺さ
れたと言える。 このような工事による経済的負担は幕府が行う外様藩取り潰

−13−

しの常套手段であった。 元禄10(1697)6月、藩主長成は江戸芝の上屋敷で一
夜のうちに
27歳の若さで急死したが死因は毒殺と言われている。 将軍綱吉の
「生類憐令」の最大の被害者は津山藩であった。

    長成は性格猛々しく武勇に優れていたが領民への思いやりは少なく、国内の吟
味は厳しく切畑、焼畑など新農地の検地に目こぼしなく正保以降元禄までに1万
6千石も増石、また年貢米も倍層した。 そのため百姓の困窮は計り知れないも
のであった。 老人は飢え、幼児を育てることもならず、このまま長成の治世が
続けば作州人は絶えるとまで囁やかれたと言われる。     

4.8 藩取り潰し

    若くして急死した長成には幕府に届け出た後嗣が無かったので幕府は藩に後
継者を選び出府させるよう命じた。 藩は急遽長継の6男である新見の関衆利を
後嗣と決め早籠で東上の途についた。 しかし、衆利は犬普請受命による莫大な
借金等の心労から第
5代藩主となりこれ以上苦労するのはこりごりと東上の途中
桑名の宿で狂人をよそい藩士安東定右衛門他
1名を切り殺し、桑名藩の手で取り
押さえられた。 

    

 この不祥事で藩主予定者が出府出来ず、幕府はこれを理由に元禄10
1697)8月2日津山藩186500石を取り潰し、津山森藩は断絶した。
 また、このとき前述のように植月御所
5千石相当の親王領も取り上げ、
良懐の親王号も剥奪し庶民に貶めた。 

4.9 津山藩に課された過酷な賦役

  1)忠政時代:@江戸城石垣普請2回、駿河城普請、篠山・亀山城普請、京都御所
造営

         A大阪冬・夏の陣出征

         B広島藩福島家改易による広島城受取使

         C大阪城石垣普請(元和6年、寛永元年、寛永5年の3回)

  2)長継時代:@幕府は大名牽制策として巨大な出費を強制

       *各藩に重臣の1名を江戸に常駐を命じる

       *大名の妻子の江戸常駐を義務付ける

*参勤交代制を設ける

         A江戸城外郭の普請(寛永13年)

         B島原・天草キリシタン一揆に動員、準備中鎮圧(寛永1415年)

         −14−

C朝鮮使節を迎える用馬提供(寛永20年)

         D江戸城本丸石垣補修(万治元年)

         Eその他、他藩の科人の預かり

3)長武時代:@湯島聖堂の火の番(元禄6年)

       A芝増上寺の火の番(元禄8年)

4)長成時代:@中野村犬小屋普請(元禄8年)

 

4.         10 森家のその後

     津山藩森家取り潰し後の森家は

ア、隠居していた第2代森長継が備中に2万石を与えられの西江原(現在の井原
市)に陣屋を置いた。 その後、宝暦
3(1706)になり播磨赤穂藩20,000石(
53,500石)に転封、長継のあとは長武の弟長直が継ぎ、赤穂森家は直系の
子孫には恵まれなかったが明治の廃藩まで続いた。

    イ、森長継の4男長冶は元禄10(1697)に備中新見藩関家18700石を継ぎ
 明治の廃藩まで続いた。

    ウ、森長継の5男長俊は分家し播州三ケ月藩15,000石を領した。 正徳2
         (1712)に分家久留里藩森家を創設、両家とも明治の廃藩まで続いた。

 

あとがき

あるとき「美作後南朝と森一族」に関する資料を目にし、自分が郷里の歴史にあま
りにも
無知であることに気付き関連する資料探しを思い立った。インターネットに
よる検索、古書店、図書館を尋ねるなどして巻末の文献を探し入手し
た。 
 これらの資料には一次資料はなく全て二次、三次資料で中には共通出典と思われ
る記述も多く、また資料の内容には別の説の借用と思われる部分もあり信頼性につ
いて疑問を感じるものもある。
しかし、これらの資料に書かれた内容は私に大きな
インパクトを与えたことは事実であ
り、心に残った事柄を印象の薄れない内にと細
かな説明抜きで時系列的に記録したのがこ
のメモである。 このメモでは1200年代
の初めから
1700年代の初めまでの約500年間にわたる南北朝に関わる歴史を俯瞰し
たが、
事象をダイジェスト的に羅列したため味気ないものとなった。 

従って、これを目にする方には記述の内容に理解しがたい事柄が多々あると思うが、
中世から近世にかけて津山地方にこのようなことがあったらしいと思っていただけれ
ば幸いである。 そして興味のある方は添付の資料を入手して目を通していただきたい。

 −15−

なお、南朝後裔説は各地に多数あり、なかでも一般的には後南朝の舞台は大和、吉野
方面として知られているが、美作に南朝後裔が1700年代の初頭まで存在し、再起を期
して幾代にもわたって果かない努力をし、またそれを支えた多くの先人たちが居たこ
とが地元に残る多くの資料、伝承、地名、社寺によって推察される。 機会があれば
これら歴史を構成する事件、背景、人物像、人間関係などについて掘りさげてみたい。

 最後にこのメモを纏めるにあたり力添えを頂いた岡山県奈義町の菅家七統のご子孫
有元氏にお礼を申し上げます。

 参考文献

 1)       日本史年表          河出書房新社
 2)笠原 英彦  歴代天皇総覧         中央公論新社
 3)田中 千秋  植月御所の真相        温羅書房
 4)原  三正  美作天皇記          おかやま同郷社
 5)霊  仁王  正さねばならぬ美作の歴史   美作後南朝正史研究会
 6)西村 彦次  美作後南朝と森一族      大阪歴史懇談会
 7)上村 敦之  鶴山城挽歌          美作出版社
 8)横山 高治  吉野山中に慟哭の秘史     大阪歴史懇談会
 9)太田  亮  姓氏家系大辞典        角川書店
10)安居 隆行  後南朝皇胤尊雅王について   大阪歴史懇談会
12)森  茂暁  闇の歴史、後南朝       角川選書
13)日高  一  津山城物語          山陽新聞社
14)三好 基之  新釈美作太平記        山陽新聞社
15)早瀬 晴夫  消された皇統         今日の話題社

 

−16−

 

*このサイトを開いた福田和義の一言を載せさせて頂きます。

 このサイトを開始したのは、H25年1月でしたが、私の所属します
パソコン・サロン(同好会)会員の歩調が揃わず、このサイトは休眠
状態でした。そこで私の出身高校・津山高校の先輩である、
秋久幸雄氏の文章を掲載する事としまして、秋久氏の快いご承諾
を頂いています。
 この文の感想ですが、登場人物は殆ど、執念、深く、何代にわたっ
て楽天を夢見ていた事が素晴らしい。現代に復活させたい情熱です
ね。秋久氏に掲載のお礼を申し上げます。
 また、各位がご友人に吹聴して頂ければ嬉しいです。平成25年7月